桐の校章を型どったこの植え込み(柘植)は、かつて事務職員だった中田昭(ナカダアキ)さんからの退職寄贈品です。昭和16年山水発足〜63年迄の長きにわたり学園と共に歩まれた中田さんの、桐朋への想いが詰まっています。
ご本人の希望で寄贈者名すら無いので目立ちませんが、正門を入ると正面にあるので7月17日の紅会の際には是非ご覧下さい。



- 田口先生ありがとう-
我々赤34期生と中学1年から卒業するまでの6年間一緒に歩んでこられた田口勝義先生が、2010年2月6日永眠されました。
享年64歳。
田口先生を偲ぶ‥‥‥34期紅会幹事を代表して‥小谷田(西村)美恵子
 
 今年2月6日、田口勝義先生が永眠されました。享年64歳。桐朋を定年退職されてからまだ5年足らず、早すぎるお別れでした。今の想いを綴ります。

 思い返せば2年前の5月、初台のオペラシティでの紅会に先生はご出席くださいました。開始ぎりぎりに受付にお見えになった先生のお姿をみて、私たち幹事は少なからず驚き心配になりました。ちょっとお痩せになったのでは・・と。


 会の終盤に先生方からご挨拶をいただきましたが、その最後に田口先生が話された内容に私たちは耳を疑いました。「少し前からおなかの調子が悪く・・・検査をしたら悪性のものが見つかり・・・生存率は数%の癌で・・・余命はいくらもなく・・・」みな衝撃を受けました。さらに、「皆に会えるのはこれが最後になるかもしれないからこうやって来ました」・・・。会場が静まり返りました。
閉会の辞に幹事の大成(黒田)さんが「次の同期会は2012年の予定ですから田口先生必ずいらしてくださいね!」とお話しすると、笑っていらっしゃいましたね。あと2年でした。

 それでもその後の2年間、先生は前向きに、人生を全うするというのはこういうことだよと、私たちに教えて下さっているかのように治療を受けつつ入退院を繰り返す中でも、ご家族との日々を大切に、奥様と旅にいらしたり、ご自慢の川柳を作って穏やかにお過ごしになっていらしたようです。

 先生のご病状は、その後多くの卒業生にも知れるところとなり、お見舞いに伺ったりお手紙を送るなどして、先生への応援の気持ちは届けられ先生からも丁寧にお返事が届きました。
私も紅会後にお手紙を書くと、ちょうどその少し前に何度目かの手術をされたあとだったので、

「胃袋の弔い合戦夏来る」

また翌年の冬の再手術のあとには「今回は重く、難手術だったけど気はいつものカッチャンです。」とあり、

「寒の日に鼻水たらす仏かな」

「尊しや凍てつく地面に福寿草」

「万物の身を改める二月かな」

の三句が添えられていました。

田口先生が私たち34期の担任についたのは先生が桐朋に着任されてから2年目のことでした。それから6年間、34期はずっと先生とのご縁が続きました。桐朋にいらして初めて6年間担当した学年になります。中1D・中2B・中3D・高1E・高2D・高3F。400人近い学年の6割が先生のクラスになりました。中には一人で4回という人もいます。担任ではなくても学年みんな先生にお世話になりました。

先生の授業で思い出深いのは『竹取物語』の暗記ではないでしょうか。何十年たった今でも諳んじられるとは、12,3歳の頭は本当に柔らかく吸収が良かったのでしょうか。1月、私が田北(藤沢)さんとお見舞いにうかがったときは少し体調の安定していらしたようで、ベッドに座って不義理しているからと年賀状の返事を書いていらっしゃいました。つい息子たちが教わる『竹取物語』の語句との違いについて質問してしまいましたが、先生は病床上でも熱心に解説して下さいました。教員魂を感じ胸うたれました。

先生のお住まいは私たちの在校中は学校のあの独身寮、ご結婚されてからしばらくは校宅に、そしてお子様が大きくなられてからは八王子の寺田町に移られました。奥様のお話では学校から帰宅するとご自宅でお子様と穏やかに話をしたり遊び相手をして過ごすのが何よりの楽しみだったとのことです。
田口先生というと、昼休みや放課後にテニスや卓球をしていらした姿を思い浮かべる人も多くいるのではないでしょうか?何度かお手合わせしていただいた思い出のある人もいるのではないですか?そういえば、先生に寄せ書きをお願いすると、ご自身の似顔絵、くるくるの髪の毛にめがね、左手はおなかをさすり、右手にラケットというキャラクターを書いて下さいました。

赤の卒業アルバムには「チグタはどこにでも現れる。どこにいっても自立しろよ!」との言葉が寄せられています。いま、先生はどこかに現れているかもしれませんね。「今年の桜は見られないかな・・桜、見たいな」とおっしゃっていた田口先生。

「春待たず 南空(みなみ)へたちや 御仏となり」

「「自立せよ」説いた恩師 旅立ちぬ」

「そらをゆく チグタの魂 いまいづこ」(拙句)

ご葬儀は、ひっそりと家族だけでとの先生ご本人のご遺志とは裏腹に、2月13・14日の両日にわたって約600人を越えるほどの多くの卒業生や先生方が田口先生とのお別れに集まりました。中でも34期は二日間に50人以上が参列しました。御通夜はみぞれか雪かという冷たいものが舞う中、葬祭場の周りをぐるりと囲むほどの列でした。先生が退職直前に中2の1年間だけ担任された白の学年はこのとき高3、受験の真っ最中に制服姿で参列していました。34期にも他の期にも母娘2代でお世話になった人も何人もいるようです。みんな先生が大好きでした。

紅会の幹事ということもあり、私,柿崎(渡辺)さん大成(黒田)さん(61期紫・66期白、共に娘が担任)、生物室に勤務の真鍋さんとでご葬儀のお手伝いをさせていただき、最後まで同行させていただきました。また、通常は親族と関係者のみで行われる最後のお別れも、告別式に参列した人全員が列をなして、柩の先生に「さようなら、ありがとうございました」とお声を掛け、早すぎるお別れを惜しみました。

本当はまだ信じ難くてお別れなどはいいたくない思いです。前回に紅会においでいただけたことは、本当に大切な思い出になってしまいました。その紅会に来られなかった方、ご葬儀に来られなかった方も多くいると思われますので、このたび、田口先生への追悼をこめた紅会を開くことにいたしました。今回、ホームページは田北(藤沢)さんの尽力で新規開設し、田口先生の追悼コーナーも設けました。

先生、どうぞゆっくりとお休みください、いままで本当にありがとうございました。
永遠に「チグタは私たちの先生です」。合掌。

34期紅会幹事を代表して 小谷田(西村)